医局の歴史

医局史

黎明期

昭和23年3月25日、広島県立医科大学認可時の教官スタッフの中に、助教授 難波一郎の名前が認められる。同人は岡山医大からの転出で、赴任時、岡山医大附属医専卒の寺坂健二を助手として帯同したとされている。教室年報には昭和23年6月14日付、難波一郎助教授、耳鼻科部長に新任(医専教授兼任)とある。しかしながら事実上の着任は附属医院が安浦町旧海兵団跡にあった昭和22年(または21年?)だったようである。

<塚本教授時代>

昭和24年2月1日、塚本寛教授(京大卒、前満大教授)の着任によって教室の基礎が確立された。
当時の附属病院は、呉市広町大新開の旧広海軍共済病院を買収したものであり、木造2階建ての粗末なものであった。教授室と助教授室とは本棚とロッカーをもって区切り、助教授室と医局とは標本棚をもって一応境界は作ったものの、元来は一室の手狭なものであった。やがて、東側の別棟に研究室ができて、塚本教授専門の中耳伝音連鎖生理の研究が始められた。病室も窮屈なもので、当時耳鼻科に割り当てられたのは、第1病舎2階にわずか12~3床であった。
教室員の数が増すに伴って、関連病院が加わり、昭和25年7月から、山口県柳井国民健康保険病院に田村浩通が派遣された。26年5月からは田村の帰局に伴い後任として渡部俊ニが出向した。

昭和26年春には、1年間のインターンを終えた県立医専1回生が入局した。昭和27年には、県立医専2回生が、昭和28年には県立医科大学1回生が入局した。
昭和29年8月、難波助教授が退職。川崎重工病院へ赴任した。
昭和31年4月、大学は国立移管が完了し、塚本教授は附属病院長に就任した。
昭和32年、広島医科大学(新制)1回生が入局。
昭和32年9月30日、国立移管に伴い、附属病院は呉市広町から、広島市南区霞の現在地に移転した。
昭和33年、難波一郎前助教授は開業後いくばくもなくして不帰の客となったが、このころの医学部は、赤レンガの外来及び研究室で、阿賀及び広の木造よりはなんとか体裁がよくなっていた。
昭和34年、大学院が設置され、第1回生として原田康夫が入学した。
昭和35年、塚本教授は、学部長、原医研施設部長併任となった。
塚本教授は、36年頃から、尾道農協病院長を兼任し、退官前の2年間は、広島と尾道を往復する生活であった。

<黒住教授時代>

昭和38年3月塚本教授の退官の後、7月1日に黒住静之教授が岡山大学から着任した。黒住教授着任の月、長年助教授を勤めた田村浩通は退職し市内で開業した。その後任には山下隆章が昇任した。

この後の10年間は、学園紛争などがあり必ずしも平穏な10年ではなかったが、塚本教授の時代とはまた異なったムードの教室ができ上がった。塚本教授の代からの教室のテーマである喉頭生理、中耳伝音系の生理、その他についてはそのまま続けられるとともに、黒住教授のライフワークである唇顎口蓋裂、皮膚、粘膜、軟骨、骨の移植、鼻副鼻腔の基礎に関する研究が始まった。

黒住教授は臨床に厳しく、着任当時は、特に上顎癌、喉頭癌、頸部郭清術に意欲を燃やした。昭和40年、黒住教授は第17回日本気管食道科学会で、「喉頭癌に対する喉頭部分切除」のシンポジウムを受け持った。

4月、原田康夫がイタリアパビア大学に留学した。昭和41年6月、約3年ほど助教授を勤め、喉頭生理の多くの研究を発表した山下隆章助教授は退職、開業した。

昭和42年3月、黒住教授は第6回日本鼻副鼻腔学会で「慢性副鼻腔炎の治癒の判定基準」を報告し、10月には第8回オトマイクロサージェリー研究会、第14回頭頚部腫瘍研究会を主催した。この年の4月、原田康夫助教授昇任。

昭和43年3月、黒住教授は第68回日耳鼻総会のシンポジウムで「慢性副鼻腔炎の根治手術の適応はどこにおくべきか」として報告した。4月1日、耳鼻科病棟は新館(東病棟7階)に移転。6月、上田直昭がセントルイスのワシントン大学へ留学している。昭和47年、文部省在外研究員として黒住教授は欧米に出張した。

昭和48年10月、黒住教授のメインテーマである唇裂口蓋裂の手術例が約1,000例を越え、加えて顔面の形成、喉頭外傷の後の形成などへの興味から、皮膚、軟骨、骨移植の基礎問題が、重要な教室のテーマとなり、このまとめは「皮膚、軟骨、骨移植の実験的研究」と題して第1回顎顔面機能外科研究会で特別講演された。昭和49年、原田助教授を中心とする「めまいに関する研究」および、「耳鼻科領域へ走査電子顕微鏡を用いたこと」により、昭和49年度広島医学会賞が授与された。

昭和50年には鈴木衞が帝京大学、鈴木淳一教授のもとに国内留学。この時に始まる帝京大学とのつながりはそれ以後平川勝洋、福島典之、酒井利忠、平田思、渡部浩、平川治男、益田慎、藤井守、森直樹と現在まで続いている。

昭和51年10月には第15回日本鼻副鼻腔学会を主催した。昭和52年5月には第78回日本耳鼻咽喉科学会総会において「頭頚部形成外科の基礎と臨床」と題して黒住教授が特別講演を行った。

<原田教授時代>

昭和53年3月31日をもって、黒住教授は定年の2年前に教授を辞し、広島県立リハビリテーションセンター所長として赴任した。それに伴い6月、原田康夫助教授が第3代教授に選考され、昇任した。
現教授の夜陣紘治は双三中央病院よりドイツ、ハノーバー大学のレーンハルト教授のもとへ留学した。
教室では黒住教授時代の移植の研究を続けながら原田教授のライフワークの、内耳、気道の生理と形態学的研究への体制が整えられていった。

昭和54年からは入局者も順調であったが、9月から鈴木衞がカナダのハンタードーバー教授の招きでトロント小児病院に留学。ここにはそれ以後継続して平川勝洋、白根誠、福島典之、永澤昌、竹野幸夫、平川治男の多数が留学することとなった。

同じ時期に黒川道徳がロスアンゼルスのイヤーインターナショナルのプレック教授のところに1年間留学。平良達三が京大形成外科、川真田聖一が広大第二解剖へと、多数の医局員の留学により、この頃が一番教室の手薄なときであった。
しかしながら、この頃、新しい電顕も2台入り形態学的研究は一基に進行し始め、「耳石代謝に関する研究」で工藤賞を原田教授が受けている。この年の11月には、第39回日本平衡神経科学会を主催した。

昭和56年頃になると教室の陣容も整ってきて、入局者もしだいに増加し、教室内の活気は徐々に高まってきた。
なお、6月に杉本嘉朗助教授が退職、開業している。
この年の9月には「耳石代謝の研究」により日本電子顕微鏡学会賞を原田教授が受賞した。厚生省科学研究費「嗅覚味覚障害の基礎と臨床」を受け、さらに有木健が嗅覚生理の研究のため群馬大生理学教室へ留学するなど、教室のテーマは内耳のみならず味覚、嗅覚に関する分野へも広がった。

昭和57年には生理学研究室にコンピューターが導入され、新たに透過電顕も入り4台の電顕が動き始めた。12月、夜陣紘治助教授昇任。なお原田教授がCollegiumORSのメンバーに加えられたことは教室にとっても真に名誉な出来事であった。昭和58年には原田教授はスウェーデン、カロリンスカ研究所に客員教授として招かれノーベル銀メダルを授与された。
この年は計10名という最多の入局者を迎え教室の中が人であふれるというぜいたくな状態となった。また極めて高い分解能をもつ走査電顕日立S800が導入されたのもこの年で、以後の一連の超微細形態に関する仕事に大いに貢献することとなった。
さらに、この年の11月には黒住静之名誉教授が第40回中国文化賞を受賞した。12月には広島赤十字原爆病院が関連病院となり野田益弘講師が赴任した。

昭和59年には2月に第31回日本基礎耳科学会を主催し、5月には第85回日本耳鼻咽喉科学会総会にて「前庭器の形態、機能と病態」という題目で原田教授が宿題報告を行ない、その結果は1巻の研究書として刊行された。
この年、原田教授は附属病院長となり昭和63年3月まで2期勤めた。しかしながらこの年3月12日黒住静之名誉教授が急逝されたのは悲しい出来事であった。

昭和60年10月には第15回日本耳鼻咽喉科感染症研究会、第9回日本エアロゾル研究会を主管している。

昭和61年4月には第87回日本医史学会を主幹し、8月には工田昌也がスウェーデン、カロリンスカ研究所に2年間留学し、昭和63年5月「内リンパ嚢の研究」でカロリンスカ研究所より学位を取得した。
また、原田教授はインド神経平衡科学会より毎年世界でただ1人与えられるゴールドメダルを日本人として初めて授与された。昭和62年には鈴木衞がロサンゼルスのプレックイヤークリニックへ留学した。

昭和63年11月には第28回日本扁桃研究会総会、第40回日本気管食道科学会が開催された。

平成2年4月から原田教授は学部長に就任し2期勤めた。平成3年1月夜陣助教授の広島総合病院への赴任にともない後任として田頭宣治が助教授に昇任した。
3月、40年間、医局の研究を助けた村尾学技官が退官した。その後任として4月より新開薫が研究室に勤めることとなった。

またこの年度より国家公務員の週休2日制に伴い土曜日の診療が休みとなり残りの曜日が今までにもまして多忙となった。この年9月より平川勝洋が人工内耳埋込の研究のため、ドイツ、ハノーバー大学に留学した。平成4年8月、田頭助教授は広島総合病院に赴任し、それに伴い鈴木衞が助教授に昇任した。

<夜陣教授時代>

平成5年5月原田教授の広島大学長就任に伴い、8月1日をもって夜陣紘治現教授が第4代教授に就任した。
臨床面では人工内耳埋込術が平成5年に始まった。これ以後教室の研究は内耳に加えて夜陣教授のテーマである鼻、副鼻腔、頭頚部腫瘍の研究へと発展をとげている。

平成6年9月には第33回日本鼻科学会を主催し、また、この年の6月、原田学長が日本人で初めてバラニー学会のゴールドメダルを受賞した。

平成7年春には医局在局人員は総勢32人となり夜陣教授のテーマである鼻、副鼻腔疾患、頭頚部悪性腫瘍を中心とした研究、臨床にいそしんでいる。
なお、6月、助教授退任の後、長らく同門会長として教室の発展に尽力した田村浩通が逝去したのは医局のみならず同門会にとっても悲しい出来事であった。

<平川教授時代>

平成17年3月夜陣教授の退官に伴い、4月1日をもって平川勝洋教授が第5代教授に就任した。

前年度より新しい臨床研修制度(スーパーローテート)が始まり、2年間は転職組以外の新規入局員がいなかったことや新規開業が続いたことも影響して、医局員数は徐々に減少し平成19年には最盛期の半分以下となった。幸いなことに全国的なマイナー科不人気にも関わらず、その後の新規入局者はそれなりに確保できたが、新規開業が続き医局員数は伸び悩んだ。しかし、新専門医制度の平成30年度導入公表が追い風となり、入局希望者が増加し、医局員数も徐々に回復した。

研究面では夜陣教授の「副鼻腔炎の難治化因子の解析と治療法」を引き続き継続するとともに、「難聴遺伝子解析と新たな人工聴覚機器の開発」の研究にも精力を傾けた。

臨床面では、少ない医局員の中、国立がん研究センター東病院に複数名を国内留学させ、広島県の頭頸部癌治療の標準化に貢献した。また、新たに開設された聴覚・人工聴覚機器センターのセンター長として、人工聴覚機器の適応や訓練を医師、言語聴覚士を中心としたチーム医療により一括して行い、聞こえを最大限に活用できる最適なサポート体制と教育・療育体制の構築に大きな業績を挙げた。

平成22年 第24回日本耳鼻咽喉科学会専門医講習会を主幹した。

平成23年 第24回日本口腔・咽頭科学会総会ならびに学術講演会を主催した

平成24年4月より広島大学副学長に就任した。

平成25年9月より新診療棟が開院。

平成26年6月 医局移転 長年住み慣れた臨床研究棟を離れ、旧歯科外来があった場所へと医局員総出での大移動を行った。

平成27年 第54回日本鼻科学会を主催した。

広島大学病院長に就任し病院運営に貢献した。同時に広島大学理事・副学長として、「スーパーグローバル大学創成支援」において「タイプA(トップ型)」の13大学の一つに選ばれた本学の運営指針の決定にも手腕を発揮した。

平成29年 第118回日本耳鼻咽喉科学会総会・学術講演会主催した。広島市では2度目の開催となり、4500人を超える参加があり盛会裏に終わった。